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しのぶれど
2012年の夏に無料配布したものです。
お正月なネタではありませんし、お読みになった方もおられるので躊躇しましたが、松の内くらいなら上げていてもいいかなーとw
時期が来れば下げますが、宜しければお読み下さいませ。
*  *  *

 春とは名ばかり、寒さが続く二月下旬。高校の補習も全て終え、あとは卒業を待つばかりとなった最上キョーコは椹から呼び出されて重苦しい気持ちのまま事務所に来ていた。
 事務所社長の賑々しい愛の一大イベントたるバレンタインデーが終了し、事務所内は次のイベントへ向けて束の間の静けさに包まれている。
 先日までの騒がしさが嘘のように静まりかえる社内をキョーコは「やっと静かになった」と愛が主食の社長を真っ向から否定するようなことを思いながらエレベーターホールへと向かっていた。 

「ごはん食べに行きましょうよぉ~」

 耳に飛び込んできたコトバ。
 媚びを含む黄色い声に思わず視線を向けると、人より頭抜けて高い身長を誇る先輩俳優が二十歳前後の女性四、五人に囲まれて人当たりの善い表情を浮かべていた。
(また囲まれてる)
 キョーコは立ち止まるとその一団を見つめる。
 意外な事だが事務所内で女優やモデルが蓮を取り囲む事は少ない。蓮を見つけて取り囲むのはもっぱらセクション違いのタレントや歌手だ。
今も取り囲んでいるのは天然キャラが受けて人気が上昇しているアイドル歌手グループだった。
「りな、ハタチになったんですよぉ。敦賀さんとお酒飲みたぁい。連れて行ってくださいよぉ」
 小首を傾げシナを作り食事に行こうと蓮を誘った娘が語尾を延ばした甘い声で更にアピールすると、「えー。ずるい~。アタシも行きたい」と横槍が入り、一人が抗議の声を上げると「わたしも!」、「あたしだって行きたい!」と他の面々も同調する。
 その様を蓮は少しだけ困った表情を浮かべてやり過ごしている。
(行く気が無いならはっきり言えばいいのに。いくら人気商売って言っても同じ事務所の人間にまで愛想を振りまく必要なんて無いじゃない)
 知らず眉根を寄せてその様を見ていたキョーコはハッと我に返ってエレベーターへと向かって歩き出した。
(私には関係ないことだわ)
 キョーコは眉間に皺を刻んだまま上階行きのボタンを押しエレベーターの到着を待った。
 コンクリートの建物は声が反響しやすい。嬌声は今だ止むことなく、より高くキョーコの耳へと入ってきたが彼女はそれを意図して意識から追い出した。
 それなのに止まること無く声は響く。
 全身に絡みつくようなそれに苛立ちを覚えてキョーコはじっと床の一点を見詰めた。
(そこまで愛想良くすることないじゃない)
 訳もなく立ち上る苛立ちをキョーコは持て余して床から視線をはずせないでいるとチンという軽い音共にエレベーターが到着し扉が開いた。
 三時過ぎという時間帯もあるのか箱の中には誰もおらず、ほっと息を吐いて彼女はそれに乗り込む。
 目的地の階表示ボタンを押すとついっと下がった視線は一番下のマークに留まり、キョーコの指先は彷徨うように揺れてから底辺が鏡になっている三角のマークをそっと押した。
 午後三時を過ぎたばかりのこんな時間に事務所に蓮が居るという事は仕事の打合せか何かだろう。
 キョーコが居る事に気付いてないだろう。
 しかし───。
 三方が壁になった箱の中に入ったからか耳に届く喧噪は弱まった。
(バカみたい───)
 しばらく『開く』ボタンを押し続けていたがそっと指を離すとそのまま後ろに下がって壁に寄りかかった。
 蓮はここにキョーコが居るとは知らない。囲まれて足止めされている人を待ってなんになるのか。
 蓮は誰にでも優しい。フェミニストな蓮が話しかけてきた女性(例えそれが明らかにナンパと取れるものであっても)を素っ気なくあしらう筈がない。
「………にだけ優しい訳じゃないわ」
 扉が閉まりかけほっと息を吐くと呟きがキョーコの唇からこぼれ落ちた。
 その時。 
「酷いな」
 ガッという音と共によく識る耳馴染みの良い声が降ってきた。
 弾かれたように顔を上げると、締まる自動扉を手で止め、出来た隙間から滑り込んでくる蓮がいた。
 乗り込むと蓮は開いた扉を閉めるために即座に「閉」のボタンを押す。
「助けてくれてもいいんじゃないかな」
 とん、と壁に背を預けて蓮は呟いた。
「気付いて………?」
 呆然と蓮を見上げてキョーコは呟く。その大きく見開かれた瞳にじっと彼女を見つめる彼自身の顔を認めた。
「ああ」
 いっそ素っ気ない声音で短く返事をする。
「エレベーターのボタンを押して待っていてくれるくらいなら、助けてくれた方が嬉しいよ」
 いつ、どれくらい見られていたのだろう。
 キョーコは頬に朱が上るのを感じた。
「だ……って、助けるなんて……無理、ですよ。敦賀さんは女性の怖さを知らないから」
 スッと視線を外してキョーコは俯いて呟く。
「怖いって?」
「ああいう女性の邪魔をすると後々嫌がらせされるんですよ。別に嫌がらせなんてどうって事ないですけど、面倒事に巻き込まれてお仕事に差し障りが出るのはご免です」
 これだけは言っておかないと、とでも思ったのだろう。キョーコは顔を上げてしっかりとした口調で蓮に告げた。
「敦賀さんならそつなく立ち去ると思ったし………」
「そつなくねぇ」
「だって。本当の事じゃないですか。いつも囲まれているけど抜け出してますよね」
「社さんがいるからね」
 言われていつも隣にいる社の不在にキョーコは気付いた。
「社さんは?」
「今頃は彼女たちを散らして俳優部に向かってるんじゃないかな。俺を先に行かせてくれたから」
 ああ、とキョーコは納得する。
 相手が同業者で先程みたいにしつこく付きまとうようなら社が先に蓮を目的地に向かわせるのが常だった。
「社さんも大変ですね。モテる俳優の担当になると」
「言われるほどモテはしないよ。物珍しいだけださ」
「そんな事……」
「そうだよ」
 素っ気なく言い切られてキョーコは話の接ぎ穂を失う。挨拶一つせずに立ち去ったのだから後輩の態度としては非常に失礼だっただろう。
「すみません」
 呟けば「いいよ、別に」と返されて居たたまれなさが増えてしまう。
 久しぶりに蓮に会えたのにちゃんと挨拶しなかった事も不興を買うことになった一因だろうか。しかし何やら釈然とせず、次第にイライラとしてくる。
 その感情に埋没し黙ったまま床を見つめていると沈黙が息苦しくなる前に「チン」と目的の階の到着を告げる音と軽い浮遊感を感じた。
「どうぞ」
 キョーコは蓮が動くよりも先にエレベーターの開ボタンを押して先に降りるように勧めた。
「こういう場合は女性が先だろう?」
「先輩より先に降りるわけにはいきません」
 譲らないキョーコに蓮は一つ息を吐いて壁から身を起こす。
「押し問答しても仕方がないな。分かったよ」
 そうしてキョーコの横を通り過ぎエレベーターを降りた瞬間。
「……どうせ断るんなら優しくしなきゃいいのに」
 ささやかな呟きが耳を打ち蓮は驚いて振り返る。
「いま……なんて?」
「え?」
「なんて言ったの?」
 聞こえるとは思っていなかったのだろう。問われてキョーコは表情を硬くした。
「別に、なにも」
「なにもって。今、優しくしなきゃいいって言ったよね」
 キョーコは内心舌打ちした。なんて耳ざといんだろう。蓮相手にごまかす事は無理なのを経験上知っているキョーコは諦めて言うだけ言ってしまおうと腹を括る。
「敦賀さんは無駄に優しいんですよ。誘われたって行く気がないんなら最初から優しくしなきゃいいんです。そうやって誰にでも優しいから勘違いする人が増えるんです」
 面と向かって一気に言い切る。その表情は本人は無自覚だがかなり不満そうだ。
「無駄に優しいって……。それに誘われるって言うけどあれは社交辞令で───」
「女性から誘っておいて社交辞令な訳ないじゃないですか」
 あんな下心丸出しなのによくも社交辞令だなどと言えるものだ。鈍いにも程がある。人の鈍さを指摘する前に自分の鈍さに気付くべきだ、とキョーコはムカムカとしてくる。
「そうなの?」
「そうです」
 ぷいっと横を向いてそれきり口を閉ざすキョーコに蓮は困惑する。
「えっと……別に彼女たちに特別優しくした覚えはないよ。一応、人気商売だから失礼の無いようにはしてるけど」
「じゃあ、お食事でも何でも行って差し上げたらいかがですか?」
 固い声で告げて蓮に頭を下げる。
「椹さんに呼ばれているので失礼します」
「最上さん!?」
 蓮が慌てたようにキョーコを呼び止めるがそれに振り返ることすらせずに足早に遠ざかる。
「行かないよ」
 キョーコの後ろを追いかけて蓮はそう言う。
「私に言われても困ります」
「気にしてるのかと思ったから」
「別に気にしてません!」
「そう?」
「そうです。敦賀さんが誰と食事に行こうとただの後輩である私には関係の無いことです。って、なんで付いてくるんですか!?」
 当たり前のように並んで歩く蓮にキョーコは文句を言う。
「なんでって同じ所に行くからだよ」
「同じ……? 私は椹さんに呼ばれたんですよ」
 俳優部にいる蓮がタレント部に呼び出されるなんて言う事はおかしい。バラエティに出演するとしても俳優部の主任から連絡が行くものだ。
「うん。でも、きっと同じだよ」
 疑問符を浮かべて蓮を見上げるキョーコにそう言うと「ほら、ここだろ」と目的のドアを指さした。
 ドアに付けられたプレートは昨日の電話で椹が告げた部屋のものだ。
 まさか、と困惑を浮かべて自分を見上げるキョーコをそのままに蓮はドアをノックした。中からの応えは椹の声でそれが聞こえたキョーコは益々混乱する。
 そんなキョーコをドアを開けた蓮が「ほら」と中へと促す。
「失礼します」
 蓮が会釈してドアを押さえるのでキョーコは慌てて室内に入り一礼した。
 室内にいるのはタレント部の椹、俳優部の松島という各セクションの主任、かっちりとしたスーツ姿の四十代と見える男性二人に笑みを浮かべて会釈するのは緒方だ。そしてもうひとり───。
「ミューズ……?」
 ジュリー・ウッズがひらひらと手を振っている。
「お、蓮も一緒か。まあ座れ」
 そんなキョーコの状態など構わずに椹が二人を手招きする。
 指し示された椅子の前に立つとスーツ姿の二人が立ち上がりキョーコに名刺を差し出してにこやかに挨拶する。
 名刺には大手広告代理店の社名が書かれており、先日オファーがあった仕事の関係者であると思われる。
「二人とも座れ」そう促されてソファに腰掛けたもののキョーコの意識は隣の蓮に向けられる。
「二人には事前に話しているがテレジャパで毎年行っているチャリティ番組。あれの企画をやっているのがこちらの会社だ」
 口火を切ったのは松島だ。
 事前に聞かされていた内容を確認する口調の松島にキョーコと蓮は頷く。
 それはキョーコが生まれる前から放送されている有名チャリティ番組で、日本でチャリティ番組と言えば「ソレ」の名前しか挙がらないと言われる程だ。
 全国から寄付を募り集まった寄付金は福祉施設や車椅子や介護用送迎車の購入に回されているにも係わらず、出演者にはギャランティが発生しているという矛盾により近年では番組のあり方が疑問視されている。
「ご存じの事と思いますが、チャリティとは言いますが出演者にはギャラが支払われている事や障害を持たれる方を見せ物扱いしている等、苦情もあります」
 代理店の一人が松島の後を受けて話す。
「その時に宝田社長が出演者のギャランティは寄付に回そうとおっしゃってくださいまして。まさに鶴の一声でございました」
 企画の背景から語り出されて正直、どう反応を返せばいいのか戸惑うがキョーコは大人しく拝聴する。
 内容は毎年やっている事と変わらないが発生したギャラは全額寄付に回す。
 また例年、メイン会場で歌手が「応援歌」として歌を歌っているが、それを一曲百円で会場で歌った直後に一週間限定のDLとして販売。売り上げ結果はランキング形式にして販売終了後に番組HPで発表すると事。その案にはライブ中心でテレビには滅多に出ないアーティストも興味を示した為、いっそのことライブ専用の会場を作ろうという話に発展したらしい。
「今年はより視聴者の皆さんにチャリティを身近なものに感じて貰う工夫と、日本人のチャリティの意識向上を目指す事になりました。とは言いましても例年、企画しております特別ドラマは変えることなく放送致します」
 どうやらやっと本題にはいるらしい。
 キョーコは渡されていた台本を鞄から取り出して話を聞く。
「───ストーリーは一時は天才とまで騒がれたピアニスト志望の音大生が初めてスランプ陥り、自身の進む道を模索中に一人の少女と出会い、恋をし、その恋人を病で失うというラブストーリーです。音大生役を敦賀さんに。急性白血病に罹る敦賀さんの相手役として京子さんにお願いしたいのです」
「え?」
「敦賀さんと緒方監督には昨年より打診しておりましたが相手役選考に難航致しておりまして、その時に緒方監督より京子さんを推薦されました。ダークムーンは私たちも拝見しておりましたし、LMEさんにお願いして出演した作品はデビュー作のCMから全てに目を通させて頂きまして、その結果として今回是非にお願いしたいと思いました。引き受けてくださって本当に有難うございます」
 深々と頭を下げられてキョーコは「あ、いえ……」と言葉を濁すしかなかった。椹一人だと思っていた場所に監督やら企画会社の人間、ましてや当の主役がいるとは夢にも思わなかったのだ。深々と頭を下げられてまさか「お引き受け出来ません」とは言い出しにくい。椹を盗み見るとキョーコが褒められて嬉しいのだろう、満面の笑顔だ。
 とても断れる雰囲気ではない。更に畳みかけるように
「京子さんは本当にすばらしい役者で」と緒方が褒めちぎる。
「京子さんはアクが強い役ばかりなので正直、上の方では難色を示していたのですが、僕はこのドラマはどうあっても『役者』を使いたかったんです! そうお話ししたら緒方監督、敦賀さんも私の意見に同意してくださり、また宝田社長のお墨付きも頂きましたので、もうこれは京子さんで行くしかないと企画を通しました!」
 キョーコはくらくらと目眩がした。何を基準にそこまで太鼓判を押すのか。
 ラブストーリーを振ってくる上に、敦賀蓮の相手役なんて愛の欠落者たる自分に配役ミスも甚だしい。
 しかしこのような場で自分の欠点を声高に叫ぶなど愚の骨頂だし、言い出せるような空気でもなく。ましてや配役に一枚噛んでいるのが社長では、嫌だの無理だのは聞き入れてもらえない事など容易に想像が付く。
 自分以外の人間が談笑し、ドラマのイメージを語っているのをガラス一枚隔てて見ている様な状態にキョーコは陥っていた。
 代理店の二人(あまりの衝撃にキョーコは名前も覚える暇がない)と緒方、見送りの為に松島が退室するとしばしの静寂が訪れた。
「あの……これは?」
 会議テーブルに置かれているのは完成台本の他に『簡単にできる手話』というDVDと本、それに食事のメニュー表だった。
「キョーコちゃん、聞いてなかったの?」
 あらあら、という感じで今まで積極的に会話に参加していなかったジュリー・ウッズが言う。
「す、すみません。あまりに壮大なお話で正直戸惑っていまして」
「そうよね~。ダーリンったらキョーコちゃんを驚かせるんだって言って黙って決めちゃうんだもの。キョーコちゃんからしたら驚くばかりよね。あのね、これはダイエットと撮影後に体重を戻すための食事メニューよ。役柄上、どうしても痩せて欲しい。しかも病気の痩せ方をして欲しいって監督さんがダーリンにお願いしたの。そこで過激なダイエットになるから、その後の戻し方に重点を置いてダイエットプログラムを私が組んだの。今回は私もヘアメイクで入るからしっかりサポートするわよ!」
 パチッと音がしそうなウィンクを一つジュリー・ウッズはキョーコに送る。
「撮影は最上さんの卒業と蓮の今クールの連ドラ撮影が終わった3月下旬からだ。それまでに最上さんは手話をマスターしておくように。蓮はボイストレーニングだぞ」
 最上さんもいよいよ看板だな、とほくほくとした表情で椹は立ち上がる。
 それは打合せの修了を意味していた。
 台本と手話の資料、ダイエットメニューを入れた紙袋を下げ、キョーコは促されるままに会議室を後にする。
 社長に報告に行くという椹とジュリー・ウッズになんとか挨拶してエレベーターを待つ。
 到着したエレベーターに乗り込むとキョーコの隣にいた蓮がボタンを押し「荷物持つよ」と返事を待たずにキョーコの手から紙袋を奪い取った。
「あ、いえ、いいです」
「いいから。部室に行くんだろう」
 取り返そうとするキョーコを軽くいなして蓮はそれきり黙ってしまう。
 気まずくはないが重い沈黙が降りてキョーコは居たたまれなさを感じる。
 そしてお互い会話もないまま部室まで歩いてきてしまった。
「お茶でいい?」
 キョーコが荷物を受け取るために口を開こうとした先を制して蓮が質問する。
「え?」
「お茶でいいよね。買ってくるから待っていて」
「あ、敦賀さん」
 自販機へと走って行く蓮を呼び止めようとするキョーコの声だけが廊下に谺した。
 走り去る背を見送ったキョーコは溜め息を一つ吐いて部室へと足取りも重く入って行く。後ろ手にドアを閉め、足を引き摺るようにパイプ椅子へと向かうと、会議用の長テーブルに台本の入った紙袋を置き疲れ切ったようにパイプ椅子に座った。
 のろのろとした動きで紙袋から台本を出すと肺の中の空気を吐ききるような深い溜め息を吐いた。
「相手役なんてやりたくないのに………」
 蓮の相手役はやりたくないのだ。
 なぜなら敦賀蓮という俳優は───。
「どうしたの最上さん?」
 お茶のペットボトルと缶コーヒーを手に戻ってきた蓮が机に突っ伏しているキョーコを見て面食らったように言った。
「何か、気になることでもあった?」
 はい、とキョーコの目の前にペットボトルを置くと自分もパイプ椅子を引き寄せて向かい側に座る。
 それを目で追いながらキョーコに出来ることは「いえ。別に」と言葉を濁すだけだった。
「そう?」
 重ねて問われてキョーコは視線を彷徨わせた後、蓮を正面から見て口を開いた。
「今回の仕事、敦賀さんは事前に話を聞いていたのですか?」
「まあね。相手役はまだ未定だという話だったけど、脚本を見ると話題性だけを押し出すものとは違っていたし、緒方監督が撮るって聞いたからね。それなら良いモノが作れると思って受けたんだよ」
「私の事を何か言って下さったとか」
「相手役がなかなか決まらないってあの二人が事務所に来たときに零していたんで、俺の後輩はどうですかって言ってみただけだよ」
「そんな!? 私はラブミー部員なんですよ!」
 気色ばんで立ち上がるキョーコを蓮は見上げる。
「出来るよ」
 噛みしめるように蓮は言う。
「最上さんなら出来るよ」
「何を根拠に!」
「出来ると思うからそう言ったまでだよ。最上さんなら生まれつき障害があってもそれを不幸だと思う事なく、病に倒れても挫けることのない明るい、そんな『彼女』を演れるよ」
「無理です。買い被りすぎです。私はラブミー部員なんですよ」
 キョーコは横に首を振る。
 自分はラブミー部員なのだ。
 愛などはくだらないものだ。愛して貰おうなんて願う事など愚かで莫迦げた行為だ。
 そもそも。

 もう恋なんてしない───。

 誰にももう想いを寄せる事はしない。
 心が冷えるあの想いを味わうのは一度で十分だ。
「まだ、恋をしないの?」
 蓮が向かいからそっと手を伸ばしキョーコの頬にあてる。触れてくる掌の熱に眩暈を覚えてキョーコは瞼を下ろした。
「何を言って……」
「ラブミー部員だから恋心が分からない? 違うな。恋をしないと決めているからこの仕事が嫌なんだろう」
 胸の裡がざわめく。なのに離れがたい熱を感じてキョーコは更にぎゅっと眉根を寄せる。
「恋をしないから恋愛の演技は出来ませんって事にはならないだろう」
 その通りだ。蓮が言う事は正しい。でも嫌だ。
 相手が他の誰でもない「敦賀蓮」だから。
 誰もが本気で好きになる、と言わせしめる相手だから。 そんな相手に恋をするなんて危険だ───。
 あり得ない莫迦な夢が続くことを望んでしまう。

「君は俺に恋してくれないの?」

 それはまるで鏡のような湖面に舞い落ちる木の葉のようにキョーコの胸に波紋を広げた。
「な、何を!?」
 驚いて飛び退くと椅子が派手な音を立てて倒れる。しかしそれを気にする余裕など無かった。
「ん? 最上さんは俺に恋をしてくれないのって言ったんだよ?」
「な、な、な。何を言っているんですか?」
「分かっているよ」
 蓮は離れていったキョーコの熱を惜しむようにそっと手を握り込んでテーブルに下ろした。
「恋の演技が出来ないなら誰かに恋をすればいい。『彼女』が『彼』を愛したように、君も誰かを愛すればいい。それに相手が俺なら感情をトレースしたまま芝居が出来るだろう?」
 本気で言ってるのか? キョーコはまじまじと蓮の顔を見る。
 いつも蓮は真顔で自分の事をからかう。しかし今日の彼はまっすぐにキョーコを見詰めていて、とてもからかうような素振りは見えない。
「俺って結構、なんだっけ、優良物件? だと思うよ」
 優良物件? キョーコは思わず目を瞬いた。
「なんだったかな。顔が良くて優しくてお姫様扱いしてくれそう、だったかな。デートの時の支払いがスマートそう、っていうのもあったな」
 雑誌のアンケートにでもあったのだろう、蓮は思い出すようにしてキョーコに語る。
「その通りだと思いますけど」
 毒気を抜かれてキョーコは倒れたままの椅子を戻してすとんと座る。
「そうでもないんだけどね」
 苦笑して、だから
「恋の演技が出来ないなら出来るようになればいいだけの話だ。で、その役に立ちそうなのが最上さんの近くに居るんだから利用しない手は無いと思うよ」
 頬杖をつきこともなげに蓮はキョーコに告げる。
「ままごとだよ。ごっこ遊びと一緒だ。彼女が彼を好きになった感情を君は手に入れる。恋をしないという君だけど結果として誰かを好きになる想いは手に入れられる。俺を好きになるのは最上さんであって最上さんじゃない。だから君は何一つ失うものは無い」
 蓮の提案は「恋とは一生に一度だけ」だと信じて疑わない少女にとってはとんでもないものだ。しかし反対に「役者」として生きていく上ではとてもオイシイ提案だった。
 また仕事を受けたくない最大の懸案事項である「蓮は本気で相手役を惚れさせる」という事も、役者として惚れるのならば例え本気で好きになったとしてもそれは「役」が好きになっただけで「キョーコ」が惚れたことには成らない。
 ここ数年、着実に実力を付けてきたと言ってもまだまだ脇役が多い自分に初めての主役。正直、こんなチャンスを逃すなどもったいないことだ。
 僅かに揺れ動くキョーコの心を読み取ったのだろう蓮は畳みかける。
「確かに内容はどこにでもありそうなラブストーリーだけど監督が陳腐なドラマで終わらせないだろう。俺たちはその現場にいられるんだ。役者としての腕の見せ所だと思わないか?」
 蓮の言葉にキョーコの視線に光が差す。
「この仕事、受けるね?」
 キョーコは力強く頷いた。
 それを見て蓮は立ち上がるとキョーコの側へと回り込んだ。
 つられて立ち上がったキョーコの手を取り、視線を合わせて
「最上キョーコさん。君が好きです。俺とつきあってくれますか?」と厳かに告げた。

「ふぇっ!?」
 いきなりの告白にキョーコは面食らう。
「な、なにを言うんですか!」
「え? だって付き合うなら告白しないと始まらないでしょ」
「はい?」
 顔を疑問符だらけにしてキョーコは蓮を見る。
 何を言いやがりますかこの人は、という言葉が聞こえるなと蓮は冷静にその様を見た。
 男に告白されて嬉しい顔じゃないけど、しょうがないか。
 落胆は微塵も出さずにキョーコが納得するだろう台詞を口にする。
「だから、俺たちお付き合いするんでしょ。だから俺は君に告白したんだけど」
 ごっこ遊びでそこまでは必要ないでしょう、と言いかけてキョーコはその言葉を飲み込んだ。
 敦賀蓮とはそういう役者だ。
 キョーコは僅かに胸につかえるものを感じたがそれを無視して「はい」とだけ返事をした。
「ありがとう」
 心底ほっとした声が降ってきてキョーコは驚いて蓮を見る。
 そこには本当に嬉しそうな表情を浮かべる蓮がいて「ごっこ」でどうしてそこまで嬉しそうに出来るのか、訳が分からないままそれでも頬が熱くなった。
「デート、どこに行きたい? ちゃんと考えておいてね」
「はい?」
 なにやら珍妙な言葉を聞いた気がした。
「だからデートだよ。どこに行きたい? 水族館? 遊園地? 勿論俺も考えるけど最上さんが行きたい所に連れて行くから決めておいてね」
(デート? デートって何?)
 キョーコの思考は停止する。
「付き合ってるんだから二人で出かけるのは当然の事だろう?」
 イヤイヤイヤ。不思議そうに仰いますけど「ごっこ」ですよ? なんでそんなものをしなきゃならないのですか?
 そんなキョーコの疑問を見て見ぬ振りで蓮は何も無かったかのように話題を変える。
「最上さん、この後の予定は?」
「え? 今日はなにも……」
 話題の切り替えに戸惑いながら律儀にキョーコは答える。
「そう。俺も今日はこれで終わりなんだ。予定がないなら食事にでも行かないか?」
「え?」
「久しぶりにゆっくり食事がしたいから付き合ってよ」
「はぁ……」
 気の抜けたような返事をして気付く。
「もしかしてお弁当ばかりですか?」
「デリバリーもあったけど殆どがお弁当だよ」
 苦笑すればキョーコは蓮が望む事を言う。
「それなら私が何か作ります。何が食べたいですか?」
「最上さんが作るものは何でも美味しいけどあっさりしたものがいいから和食かな」
 まんまと望むものを手に入れておきながらしれっと蓮は宣う。
「相変わらず冷蔵庫の中は空ですよね。お買い物していきます」
「分かった」
 そう言って蓮はキョーコの分の台本が入った紙袋を手に取る。
「そうだ。最上さん」
 キョーコを見下ろして蓮は告げる。
「俺が恋に落ちるんだよ」
「え?」
「君は自分の事で手一杯で忘れているけど、俺の方が先に君に恋をするんだよ」
 にっこりと微笑んで蓮はドアへと向かい、絶句しているキョーコを促す。
「最上さん、早く」
 そうして荷物を左手に纏めて持ち右手をキョーコに差し出す。
「ほら。おいで」
 ふらり、と誘われるままにキョーコは歩き出し、蓮はその手を握りしめた。
「それと。俺は誘いたい人はちゃんと自分から誘うよ」
 最初キョーコはそれが何を差しているのか分からなかったが、来たときに見かけた事を指しているのだと気付いた。
(そうなんだ……)
 なんだかホッとして嬉しくなる。その心の動きに気付かぬままにキョーコの頬は自然と緩んでいた。

 こうして本心を隠した男と心に背を向けた女の奇妙な関係は始まった。


*  *  *

 当初の予定通り撮影は三月の桜の咲く頃に始まっていたが、二人の「恋人ごっこ」の進展はそれほどなかったがメールや些細なやり取りの電話は確実に増えていた。
 蓮はこの仕事の為に露出を減らしていたから、空いた時間をキョーコと過ごす事に費やせた。
 二人は蓮の部屋で共に食事を取り、手話のDVDを見て練習するなどしていた。
 恋人らしい甘さは全く無いがそれは時間と共に変わっていけば良いと蓮は特に今までと目に見えて態度を変える事が無く、それが逆にキョーコを安心させていたのだが───。

「だから、黙っていたのは悪かったよ」
 もう何度目になるか、蓮は数えるのも面倒になった台詞を口に乗せた。
「言ったら最上さん、緊張するだろう?」
「だからってわたしのだけ台本を変える事ないじゃないですか!」
「変えなかったら嫌がっただろう」
「……………」
 クッションを抱えて涙目でソファに縮こまるキョーコは蓮の一言に無言になった。
「嫌だと言うと思ったから監督は最上さんの台本を変えたんだよ」
「う───」
 納得いかないが反論する言葉もないキョーコは抱えたクッションに顔を埋めた。

 今日の撮影であろう事かキョーコは蓮にキスをされたのだ。キョーコとて役者だ。数年前に仕事だと割り切る事の大切さをこの目の前に居る男に教えられた。事前にそういうシーンがあると分かっていたら心の準備も出来たのに、いきなり口づけられて驚く表情が欲しいという理由で緒方はキョーコにはそのシーンが抜かれた台本が渡されており、当人にとってはまさに青天の霹靂だった。
 キョーコが叫び声を上げたのはカットの声が掛かってからで、顔色が変わり叫び出す様をつぶさに見ていた蓮は立派になったものだと感心したのだ。
 それでもカットがかかった途端に「破廉恥です!」と大音声で叫ばれてしまった蓮は、予想はしていても大打撃を受けたのは確かだった。
 その後はひたすら謝り続ける蓮の姿があった。
 首謀者たる緒方は盛大に泣き出されてオロオロとするばかりだし、事の成り行きを黙って見ていた社は早々に、お前がなんとかしろ、と蓮に耳打ちして一人逃げ帰った。
 ただ蓮の有能すぎるマネージャーは、伝家の宝刀「敦賀さんなんて嫌い」が繰り出される前にキョーコを蓮の車に押し込んでくれて、それだけは感謝していた。
「マンションに寄ってくれる?」という蓮の懇願にも返事をしないキョーコだったが、逃げる事もないのが救いではあった。
 
 ぽろぽろと泣き続けるキョーコに、そんなに嫌だったのかとどんよりと暗くなっていく気持ちを切り替えるべく蓮は出がけにテーブルに置いた蒼い天鵞絨の巾着を手に取った。
「最上さん、お願いだから顔を上げてくれる?」
 蓮の懇願にようやくキョーコは顔を上げる。涙を湛えた瞳に「やっぱり嫌なんだ」と再認識して落ち込むが、面には出さずそっと親指の腹でキョーコの涙を払った。
「これ、渡したくて」そう切り出して紐を解き袋の口を開け、クッションを抱いているキョーコの右手を取りその掌に中身を乗せた。
「これ…は……?」
 濡れた睫で瞬けば眦に残った涙が転がり落ちる。その滴を受け止めて蓮は「最上さんが好きそうかと思って」と伝えた。
 エナメル加工されたパステルカラーの小花を繋げたネックレスはメルヘン嗜好のキョーコのツボをついていて「好きです」とするっと本心を口にした。
「良かった。付けてあげる」
 蓮は置いたばかりのネックレスを取り上げ留め具を慎重に外した。両手に持って「ちょっとごめんね」とキョーコの頭を囲うように腕を伸ばす。
 いきなり抱きしめられるような形になってキョーコの鼓動は跳ね上がった。
「敦賀さん。あの、自分で出来ます!」
「いいから。少しだけ大人しくしてて」
 言われてキョーコは身の置き所がなく緊張で体が強ばっていく。蓮の指先がそっと項にかかる髪をかき分け、触れるか触れないかの所で小さな金具を繋げるのをキョーコは感じ、勝手に上がる体温に敦賀セラピーと同じなのに安心できない、と混乱していた。
「ん。できた」
 その声と共にキョーコを覆っていた熱が離れる。ほっとするのもつかの間、スッと伸びてきた指先が頤を取り上向けさせられた。
 キョーコは見下ろす蓮の視線と出会って「あの……」と小さく呟く。
「うん。似合ってる」
「そ、そうですか……」
 真顔で言われてキョーコはどうにも面映ゆい。
「うん。良かった」
 そうして蓮はキョーコの右手を取るとジャケットのポケットから取り出した指輪をキョーコの薬指に嵌める。
「お揃いのリング。似合わなかったら出すのをやめようと思ってたんだ」
 花がぐるりと輪になっているデザインは華やぎが合ってかわいらしく、キョーコの指にもイメージにもよくなじんでいた。
「かわいい」
「気に入った?」
「はい!」
 微笑みを浮かべて返事をすれば柔らかい視線の蓮の顔があって恥ずかしくなって俯いてしまう。
 最近の、というより「恋人ごっこ」の提案をした後から蓮はよくこういう顔をする。神々スマイルとは少し違う柔らかい笑み。
「ごめんね」
 謝罪の言葉と共にそっと蓮の手が頬に添えられる。
「あ……の。その……」
 ふるり、と緩くキョーコは頭を横に振る。
「泣いたのは、私だけが知らなくて。それが悲しくて。敦賀さんが謝る事じゃないんです。自分に腹が立って、それで……」
 蓮や監督が悪いわけじゃない。ちゃんと演技が出来ない自分が悪いのだ。
「わたし、敦賀さんの相手役なのに………」
 生来の負けん気が表に出た一言に蓮の瞳が見開かれる。
「俺のキスが嫌な訳じゃないの?」
「え? 別に」
 ウカポロここに極まれり。
 そして、二人揃って呆然と暫し見つめ合った。
「ち、ちがっ!」
 我に返ったのはキョーコが先だった。
「おお、おおおおお仕事ですから! 嫌とか嫌じゃないとかじゃなくて、あの、そのですね!」
 何をどう言えばいいのか分からずキョーコはぶんぶんと腕を振り回し「違います」だの「だからそれは」だのとさしたる意味をなさない単語を口にしていた。
「最上さん、落ち着いて」
 人間、相手がパニックになれば成る程、本人以外は割と落ち着くものだ。
 蓮も最初の衝撃から早々に立ち直り、とにかく落ち着かせようと試みる。
「落ち着いてます!」
「あ。いや、でも……」
「落ち着いてます! 敦賀さんが話をちゃんと聞いてくれないんじゃないですか! イヤ! もう帰ります!」
 叫んで立ち上がったが、勢い込んでラグの毛足に足を取られる。
「危ない」
 蓮は倒れ込んできたキョーコを抱え込むとそのまま抱きしめた。
「離してください」
 むぎぎ~と抜け出そうと試みるもがっちりと抱え込まれて「ダメ」とすげなく言われてしまう。
「最上さんが落ち着いてくれたら離してあげる」
「落ち着いてます!」
「落ち着いてないよ。少しの間で良いから動かないで」
 キョーコの耳元で蓮は囁く。
 ううう、と唸るも蓮は話してくれないと理解したキョーコは大人しくなる。
「本当に最上さんは負けず嫌いだよね」
 クスクスと楽しそうな声が声が耳に入り、キョーコは僅かに頭を巡らせる。
「やっぱり俺の相手は最上さんしかいないよ」
 嬉しそうに笑われてキョーコは何もかもが納得いかない。
「良かった」
 蓮はキョーコの頭を自分の胸に寄せてそっと囁く。
 なんだろうと身動ぎすると少しだけ拘束が弱まった。見上げると苦笑する蓮がいた。
「嫌われたのかと思った」
「お仕事ですよ? 昔、切り替えろって言ったの敦賀さんじゃないですか?」
 蓮はキョーコの頭に顎を乗せて「そうだね」と肯定する。
「そうなんだけどね。俺としては最上さんに嫌われたくないしね」
 なにやら面妖な事を聞いた気がする。
 蓮がキョーコを嫌っても、その逆はないのに。
 のど元まで出かかってキョーコは賢明にもそれを飲み込んだ。
 そんな努力を無にするかのように、蓮はキョーコの頬を両手で挟みそっと上向かせると額に口付けた。
「ンなっ! 何を!」
「ん? 可愛いなって思って」
「か、可愛い?」
「可愛い。ね。キス、してもいい?」
 語尾に疑問符をつけてはいるが許しを乞うわけではない。
 キョーコの唇をそっと啄んで驚く瞳に向かってそれは綺麗に微笑んだ。
 コツンと額を併せると「やっぱり可愛い」と甘い吐息がキョーコの頬を撫でる。
「なに? なにを……? なんで?」
 突然の事に「なに?」を繰り返すしか出来ないキョーコ。
「ん? 理由なんて必要ないよ。恋人なんだから」
「ごっこです!」
 離して下さい、というキョーコの懇願は綺麗にスルーされる。
「慣れておいた方が良いと思うよ」
「何がですかぁ?」
 何に慣れろというのかと恐慌に陥るキョーコに更なる爆弾がそっと投下される。
「ベッドシーンがあるの忘れてる?」
 ピキョッと今度こそ固まった。
「放送の時間帯が時間帯だし、最上さんが俺を押し倒す位でそう濃厚なものじゃないけど」
「押し、押したおす……」
「だから、慣れておこうねスキンシップ」
 にっこりと微笑んでだめ押しとばかりに蓮はキョーコを抱きしめる。
「か、帰りたい」
 心からの懇願には「勿論、ちゃんと送っていくよ」という返事を貰うのだが、それが実行されるには今暫くの時間が必要だった。


「ごめん。帰りたいよね」
 拘束を解き身を離すとどこか切ない響きを帯びた声音で蓮は言う。
 キョーコは俯いて頷いた。
「あ……」
 今まで傍らにあった熱が去り、急に凍えてしまいキョーコは言いようのない不安に襲われた。
「そんな顔したらダメだよ」
「え?」
「帰したくなくなる」
 蓮の言葉の意味が分からずキョーコは小首を傾げる。
「俺はまだまだ、君の恋人にはなれないみたいだな」
 苦く笑って蓮はキョーコを立たせ玄関へと手を繋いだまま向かう。
「そろそろデートしようよ」
 そう切り出したのはエレベーターの中だった。
「デート、ですか?」
「そう。いつも俺の部屋じゃつまらないだろう?」
「そんな事ないですよ。デートって言われても……その、よく、分からないし」
 ぽつんとキョーコは呟く。
 お付き合いというものをした事がないキョーコにとってデートで行きたい所と言われても別にこれといった場所は思い浮かばなかった。
 それに、
「敦賀さん、囲まれちゃいますよ」
「そんな事は無いよ。割と放っておいてくれる」
 キョーコを見下ろして蓮は微笑む。
「行こうよ。俺は最上さんと出かけたいんだ」
 その口調と繋いだままの手を強く握られてキョーコは目を見開き、それから頷いた。

(恋人ごっこにどうしてそこまでしてくれるのかしら) そしてふと頭を過ぎった疑問にキョーコは囚われる。
(もしかして敦賀さん………)
 
 浮かんだ疑問は心を占めて去り際の蓮の誘いにも小さく頷くだけだった。


 撮影は進み、カメラの中の二人は誰が見ても微笑ましいカップルだった。
「ほんとうに、可愛いわよキョーコちゃん。もう、蓮ちゃんったらグッジョブだわ!」
 キョーコのヘアメイクからスタイリストまでをいつの間にか担当する事になっていたジュリー・ウッズが上機嫌でキョーコのメイクを施していく。
「あの、ミューズ。仰っている意味が分からないんですが」
「あら。聞いたわよー。蓮ちゃんとデートしてるんでしょ。キョーコちゃんが綺麗になる訳よね~」
 愛って偉大よねぇ。ダーリンと一緒よ。
 にこにこと続けるがジュリー・ウッズの一言に色めきだったのは周りの女性スタッフだ。
「やっぱり二人は付き合っていたのね!」
「敦賀君とデートだなんて羨ましい。ね、デートコースはどこなの? どんな所に連れて行ってくれるの?」
 矢継ぎ早に質問されてキョーコは慌てる。
「あ、あの。付き合ってないです。デートは、その、わたし男の方とお付き合いってした事が無くて。そう言ったら敦賀さんが可哀想に思って連れて行ってくださっているだけなんです!」
 キョーコが慌てて言い切ると全員の動きが止まった。
「敦賀君って……可哀想かも」
 その場にいた全員が深い溜め息と共に頷いた。


「成る程ね。道理でやたらと応援されると思ったよ」
 蓮はキョーコが入れたコーヒーを飲みながらしみじみとした口調で言った。
「敦賀さん?」
 キョーコは自分を後ろから抱きかかえるようにして座る男の名を呼ぶ。
「何が成る程なんですか?」
「ラスボスはいつも手強いって話だよ」
「ラスボス? ゲームですか?」
「真剣勝負だね」
「はぁ。そうですか」
 キョーコは小首を傾げる。 蓮がゲームの類いをしているとは思えないから何が何だか分からない。
 蓮は腕を伸ばしコトリ、とテーブルにカップを置いてキョーコの頭に自分の頤を乗せる。
「本当に手強いよ」
 そんなに大変なゲームなら止めれば良いのに、というのはゲームに縁の無い人間の抱く感想だ。
 まして、ゲームにたとえられているとは欠片も思っていないキョーコにとって「大変ですね」という人ごとの感想しか抱く事はなかった
 
 木々萌える五月。
 作中の二人と同じように蓮とキョーコは二人の時を過ごした。
 キョーコには自覚はないが、最近、女性スタッフからは綺麗になったとよく言われるようになっていた。
 その後に「本当に敦賀君はべた惚れよね」と続くのだけが疑問で、何度も敦賀さんはそういう相手ではないと言っても相手にもされなかった。
 夜景を見に横浜までドライブしたり食事にも連れて行って貰い所謂、定番のデートというものも二人は数回やっている。確かに囲まれる事はないが、チラチラと伺う視線にとても景色や料理を楽しむ余裕は無く、結局、今まで通りに蓮の部屋でキョーコが手料理を振る舞い、映画やドラマのDVDを見ては感想を述べ合ったり、たわいないお喋りをしていた。
 今までと違うのは蓮とキョーコの物理的距離は縮まっており、ごく自然(主に蓮が行動を起こすが)に口吻を交わすことも一度や二度ではなかった。
 逃げないキョーコに蓮は些かの疑問を持ってはいたが、罠にかけるように手に入れた幸運を手放すまいと必死で、逃げない意味を深く考える事はなかった。
「今日は泊まっていけるんだよね」
「はい。明日早いですから。気を遣って頂いてすみません」
 男の誘いを今までと同じようにやり過ごすキョーコに苦笑が漏れる。
「そういえば、緒方監督のお話には驚いちゃいました」
「ああ。歌ね……」
 蓮は溜め息を吐いた。
 エンディング曲は有名なジャズをカバーする事は最初から決まっていた。
 それを蓮が歌うのも決まっていたのだが、緒方はキョーコとのデュエットにしようと言い出したのだ。
 しかも視聴者サービスでドラマが放送された後にチャリティ会場へ監督、蓮、キョーコの三人が出演、蓮はそこで主題歌を歌い、キョーコは蓮の隣で手話で歌詞を披露するという事に今日、決まったのだ。
 勿論、スポンサーやチャリティの企画を行った広告代理店は狂喜乱舞。瞬間最高視聴率を狙いに行くと息巻いて帰って行った。
 それを見送ってからキョーコは不安になり、緒方にそんな事をして失敗したらどうするのかと詰め寄ったのだが、「京子さんなら出来ますよ」とあの断り切れない笑顔付きで言い切られた上に、だめ押しとばかりに視聴者にサービスしないとね、と言われてしまいスゴスゴと引き下がってしまった。

「最上さんの手話はとても一ヶ月やそこらでマスターしたとは思えないって手話担当のスタッフにも言われていたじゃないか」
「そっちじゃなくて………」
 言い淀むと唇を噛んで下を向く。
「もしかして……歌のほう?」
 訪ねると頷いた。
「嫌なの?」
「だって、歌だなんて。学校の授業でしか歌ったことがないんです! なのにいきなりデュエットだなんて。歌手じゃないのに……」
「俺だって歌手じゃないよ」
「敦賀さんは声もいいしボイストレーニングしてるから楽勝ですよ。わたしなんて発声練習さえしていないのにいきなり言うんだもの」
 ぷぅっと頬を膨らませる様が可愛らしくて思わず笑ってしまった蓮をキョーコは誤解する。
「笑うなんてヒドイです」
「可笑しくて笑ったんじゃないよ。可愛いいから笑ったの」
 キョーコを抱きしめる腕に力をこめると覆い被さるように身を寄せた。
「本当に、どうしてそんなに可愛いの」
 唇を寄せるとキョーコの体が強ばる。
 最近出てきた反応に疑問が浮かぶが、きっと一月後に迫ってきたベッドシーンの事が頭にあるのかと無視をして口吻る。キョーコの体を横抱きにして幾度も啄み、スカートからすんなりと伸びた太ももをなで上げると、とうとう拒絶の叫びが放たれた。
 やはりまだ早いか、とそっと体を離してキョーコを見れば感情を雄弁に映し出す瞳からは止めどなく涙がこぼれていた。
「ごめん。嫌だよね」
 キョーコは蓮に惚れきっている訳ではないと突きつけられたようで一気に夢から醒める心地だった。
「ち、がう。敦賀さんは悪くない……わたしが……」
 嗚咽の切れ切れにそれだけ言ってキョーコは両手で顔を覆う。
 小さな子供のように無くキョーコを見るのが辛くて蓮はそっと抱きしめる。
 三十分ほどそうしていただろうか。キョーコの嗚咽が小さくなり、蓮に寄りかかる重さが増した頃、お願いしたいことがあるのです、と切り出された。
「なに?」
 問えばためらいを見せた後に「あの……」と口を開いた。
「香水、変えて貰ってもいいですか?」
「え?」
「この、ごっこの時だけでいいんです。変えて貰っちゃいけませんか?」
「この匂い、嫌だった?」
 ブンブンとキョーコは首を横に振る。
「敦賀さんの匂い、好きです。でも………」
 すがるように蓮の袖口を握って懇願する。
「いいよ」
 あまりにあっさりとした返事だったのでキョーコは躊躇う。
「え?」
「いいよ。そうだな、後でお金渡すから最上さんが好きなの買ってきてよ。最上さんが『彼』に付けて欲しい香水を───」
 最後は呟きでキョーコはうまく聞き取れなかった。
「いえ、お金は」
「ダメ。俺に出させて。それ、ドラマ撮影中は付けていた方がいいんだね」
 問われてキョーコは頷いた。
「分かった。それまではなにも付けないよ。最上さんが買ってくるの楽しみに待ってる」
 ほっとした表情を浮かべるキョーコに蓮は微笑みかけた。
「そろそろ寝た方がいいね。パジャマに着替えておいで」
「え? いえ、このまま休ませて頂きます。ゲストルーム使っていいんですよね?」
「うん。でも、着替えたら来て」
「え、いえ。あの……」
 寝間着で異性の前に出ることを躊躇っていると、けろりとした口調で蓮は言った。
「だってお休みのキスがまだだよ」
 ボン、とキョーコは真っ赤になり「破廉恥です」と叫ぶとリビングを飛び出した。
「あれ? 素になってる」
 蓮は目を見開いて幸せそうに笑った。
 その後、宣言通りお休みのキスをするべくゲストルームに押しかけ、慌てるキョーコの瞼に二回、口吻を落とし、キョーコが安心した所で掠めるように唇を奪った。
「敦賀さん!」
 ブン、と枕を投げつけられても楽しそうに笑い、蓮は退散するべく「良い夢を」と言って怒ったキョーコに更にクッションを投げつけられた。

「もう! 誰よ、敦賀蓮は紳士だって言ったの。間違ってるわ」
 ぶつぶつと枕とクッションを拾い上げ怒りながらキョーコはベッドに潜り込む。
 それでも、我が儘が受け入れられて自然と頬が緩む。
「わたしが選んでいいって。敦賀さん、言った」
 その感情がどこから来ているのか当の本人だけが理解していなかった。

 暗闇の中キョーコはそっと唇に指を当てて嬉しそうに微笑んでいた。

 翌朝、蓮は前夜言ったとおりキョーコに一般的な金額よりも多く渡した。
 キョーコはこんなに要らないと返そうとしたが、蓮に足りないよりは余る方がいいからと受け取ってもらえなかった。
 キョーコが渋々財布にしまうと、蓮は「次に会えるときまでに買っておいて。楽しみにしてる」と抱き寄せる。
 ふと、いつもの薫りがしないことにキョーコが気付いて蓮を見上げると、当然だろうという視線を送られた。
 その日のキョーコは端から見ていても終始機嫌が良く、「何かいいことでもあったのか」と口々に尋ねられた蓮は内心苦笑しつつ「さあ。分かりません」と煙に巻いた。
 そして蓮はキョーコの姿を追う。元気なキョーコを見るのは今日で最後だ。
 この後は病気が発病するために過激なダイエットへと突入する。そして作中そのままに、蓮とキョーコのスケジュールも合わなくなる。

 逢いたいと。
 ただ逢いたいと、君は想ってくれるだろうか───。

 蓮は休憩中に楽しそうに談笑するキョーコを見て、過ぎた幸運を手に入れた苦しさを味わっていた。

*  *  *

「敦賀さんからのメール?」
 久しぶりにラブミー部で逢った奏江は携帯メールの着信音と同時に画面を開くキョーコに呆れながらそう尋ねた。
「うん。そう」
 柔らかい笑みを浮かべて幸せそうに画面を見入るキョーコに「変われば変わるものだ」と思う。

 キョーコから「敦賀さんと恋人ごっこをする」と聞かされた時は正気を疑ったものだが、どうやら気付いていないのは本人だけで、それはそれは大事にされているようで奏江は一安心する。

「恋の演技が出来ないからって断れないし。そうしたら敦賀さんが恋人ごっこをしないかって。ごっこだから気持ちだけ分かればいいんだって言うのよ。考えてみたらあのバカのせいで、デートとかしたことないし。何よりせっかくの敦賀さんとの共演をそんなことでフイにするのも勿体ないでしょう」
 キョーコは「恋人ごっこ」を受けた理由を一気にまくし立てた。

「敦賀さん、なんだって?」
「ダイエット、無理してないか? ですって。敦賀さんってね、すごい心配性なのよ」
 クスクスと笑って言うキョーコに「それはアンタにだけよ」と内心、突っ込みを入れる。

 本当にいい加減気付けばいいのに、と奏江は思う。
 恋愛なんてくだらないというのが両親及び兄姉を見てきての奏江の主張だが、最上キョーコという人間には誰かに愛されるという愚かしくもばかばかしい事が必要であると思うのだ。
 どこぞのバカ坊んの所為で恋愛回路は壊死しているが、あの一件が無ければキョーコはごく普通の恋愛をしていただろう。それが良いか悪いかは別として。
 百あったものがマイナス百になったのだ、それを元に戻すには超大型台風並みの愛情の豪雨を降らせる人が必要だと、あの見目の良い先輩俳優を思い浮かべる。
 奏江は親友の位置に落ち着いているが、俳優としての相談はきっと持ちかけられることは無いだろう。
 その位置はキョーコの中で無意識に埋められている。
 そして、その位置を争ったところで無意味だ。
 奏江が与えることの出来ないものを彼は持っている、それだけの話だ。

「ねえ、モー子さん。この後、時間あるかな」
 つい考え込んでいた奏江は「え?」と反応が遅れた。「ひどぉ~い! 聞いて無かったの?」
「悪かったわよ。なによ、もう一回言いなさいよ」
「あのね、香水買いたいの。モー子さんそういうの詳しいでしょ、一緒に来てくれないかな?」
「アンタ、新しいのでも買うの? 別に一人で行けるでしょ」
「ううん。わたしのじゃなくて違うの。敦賀さんの」
「は? なんで敦賀さんが出てくるのよ」
「え? 敦賀さんが好きなのを選んで良いよって言うから……」
 なんだそれは? 疑問に思った奏江はすうっと息を吸い込むと、「物事は省略せず一から説明しなさい!」
 部室に大声が響き渡った。
 そして事の顛末を聞き終えて余りのばかばかしさに怒鳴る気力も無くなった。
 なんなのよ、その焼き餅は。
 しかも本人気付いてないし!
 ああ、もうバカバカしい。
 あの人、分かってて放置したわね。全く、いいご身分だこと!
 貸し三つ!

 奏江はそう心に決めて「少しだけならいいわよ」と
断りを入れて立ち上がった。
「もういい加減、気付きなさいよ」とだけ呟いて。

*  *  *

 全ての終わりが近づいてきていた。

 久しぶりの逢瀬だというのに疲れているのだろう、蓮は自分に凭れて眠るキョーコの髪を手櫛で梳いていた。
 急激に体重を落としたためキョーコの髪は艶を失いパサ付き、細くなった体と相まって本当にドラマと同じように消えてしまうのではないかと錯覚に陥る。

 夢が醒めてしまう───。

 キョーコが選んだ香水を付けてから、彼女は安定していった。蓮が触れても強ばることは無くなり、最上キョーコの姿をした架空の少女は、蓮に恋をしていた。
 ぎこちなくゆっくりとではあるが自身を映す瞳の色が変わる様を蓮は見詰め続けていた。
 愛おしくて、愛していると告げることが出来るならそれが夢の世界の住人でも良いと、そう思って莫迦な提案をした。

 だが、役者をかなぐり捨てて素で恋にのめり込んだのは蓮だけだった。

 キョーコは「愛を拒絶しない最上キョーコ」を作り上げて、蓮を泡沫へと誘ったのだ。
 勿論、キョーコは無意識としてやっている。

「君は泡と消えた人魚のように全ての想いを持って消えてしまうのかい?」
 切なく苦しく蓮は囁くきそっと頭の天辺に口付ける。
 蓮の囁きが聞こえたわけではないだろうがキョーコが身動ぎし、眠りから醒める。
「気分は?」
「敦賀さん? あれ、わたし?」
「急に動いたらダメだよ。目の下、隈ができている。水飲むかい? 冷たいの取ってくるから少し待っていて」
「はい」
 キョーコの身体をソファに凭せかけて蓮はキッチンへ水を取りに行く。浄水ポットからグラスへ冷たい水を注ぎキョーコの元へと戻ると抱き起こし、口へとグラスを宛がう。
「ゆっくりと飲むんだよ」
 頷くキョーコにほっと息を吐いて額にかかる髪の毛を払った。
「ありがとうございました」
 空になったグラスをキョーコから受け取ると蓮は無言で細い身体を抱き寄せた。
「明後日で撮影は終わるけど、その後も無理しないでくれ」
 心配性な蓮の口調にキョーコは苦笑する。
「ちゃんと言う事聞きますよ。だってミューズに怒られちゃいますからね」
 クスクスと笑いながらキョーコは実は誰よりも怖い美の伝道師の名を告げた。
「分かってるならいいけど」

「撮影が終わって……次に逢えるのはチャリティの時ですね」
 暫しの沈黙の後キョーコはぽつりと呟いた。
「そうだね。その時には俺はいつも通り元気な君に会えるのかな?」
「そうですね。敦賀さんもそれまではボイストレーニングと体調管理、気をつけてくださいね」
「……寂しくなるな」
「役が終わる事がですか?」
「それもある。けど………」
「けど?」
 促すキョーコに蓮は何も言わず「そろそろ送るよ」と立ち上がった。

 エレベーターの中でキョーコは「明日、見に行きますね」と蓮に告げると「そう」とだけ返される。
 胸が詰まりキョーコは無言で自分の手を取る蓮の左手を見ていた。
「ドラマが放送の時、一緒に観よう」
 だるまやの近くで蓮は車を止めるとキョーコは追い越し車がないのを確認して、ドアを開けて降りる。運転席側へと周り「ありがとうございました」と頭を下げた。
 その時、蓮がキョーコを誘った。
「でも、チャリティ会場に行くんですよね?」
「録画しておくから」
「ああ。そういう事ですか」
「遅くなるから、泊まってくれると助かる。朝は最上さんのお手製朝ご飯を食べさせてくれたら嬉しいな」
 思わぬリクエストにキョーコは久しぶりに見る笑顔で「分かりました」と頷いた。
「それじゃ気をつけて。遅いからもう家に向かって」
「はい」
 キョーコはお休みなさいと告げてだるまやへと戻っていく。
 その姿が闇に溶け込むまで蓮はじっと見詰めていた。


*  *  *

「もう、信じられません!」
 撮影から約二ヶ月後、チャリティ番組への出演を終えたキョーコと蓮は、あの時の約束を果たすべく蓮のマンションへと来ていた。
「なんてコトするんですか!」
 キョーコは撮影中のやつれ方が嘘のようにいつものキョーコに戻っていた。
「みんな喜んでいたよ」
「破廉恥です!」
 キョーコはプリプリと怒っている。
「もう信じられない! 明日からわたし、表を歩けません!」
「たいしたことないだろう、ほっぺチューなんて」
「ここは日本なんです! あ、あんな人前で! 人が大勢見てるのになんて事するんですか」
「不破も見ていたね」
 ふふん、とシニカルに笑うとキョーコが叫んだ。
「それが何だって言うんですか!」
「ざまぁみろ?」
「訳わかんない!」
 ぶんぶんとクッションを振り回すキョーコの腕をとって「ほら、ドラマ見よう?」と柔やかに笑う男。
「ああ、いい気味だった」
 そうしてハードディスクを起動させた。
 ドラマが始まればそっちにキョーコも集中する。
 なし崩し的に抗議は終わり、二人は並んでドラマを見だした。

 そして二時間後。
「ねぇ。もういい加減泣き止んで?」
「だ、だっで……だっで」
 差し出されたティッシュで洟をかむと蓮がハンカチでキョーコの涙を拭う。
「だって、敦賀さんが可哀想」
 拭った端から泣き出す。
「でもぐやじぃ~~~。づるがざん、うまいぃ~~~」
 ズビズビと洟をすすり、キョーコは生来の負けん気を発揮する。
 コレにはもう白旗を掲げる敷かない。
「ああ、もう! ホントに!」
 抱き寄せて涙に濡れた顔を覗き込み、そっと涙を吸い取る。そしてそのまま蓮を誘って止まない赤い唇を啄む。
「しょっぱいね」
 見れば呆然と蓮を見詰めるキョーコがいた。
「な、なんで……?」
 いきなりのキスに混乱したままキョーコは呟く。
「分からない?」
 視線を合わせたまま蓮はもう一度口吻を落とす。
 二度、三度。離れては触れるそれにキョーコは混乱する。
 わからないのかと、蓮は言う。
 分からないわけがない。それは「恋人ごっこ」の時に蓮がしてくれたキスと同じだった。
 この人は、好きな人にはこうやって口吻るのだと思って切なくなったあのキスと同じだった。
 切なくて、蓮の香水を返させた。違う人だと認識すればキョーコも違う最上キョーコになれた。
 なのに、あの時と全く変わらない口吻を蓮はキョーコに送る。あまつさえ、その意味を解らないのかとキョーコに問うのだ。
「わかんない………」
「いいよ。解るまでずっとこうしていて上げるから」
 キスの合間に可愛いと囁きながら蓮はそう笑う。
 どうしてこの人はこんなにも嬉しそうなんだろう?
「それは君が逃げないから」
 逃げる? どうして敦賀さんから逃げなきゃならないのかしら?
 あらがう事ができずにいると蓮はクスクスと声を立てる。
「ああもう本当に、君はいつも可愛いよ、キョーコちゃん」
 唇の上で蓮がそういったときにキョーコは冷や水を浴びせられたように意識が戻った。
「嫌! 離して!」
「え?」
 じたばたと暴れて蓮の腕の中から這い出ると、キョーコは立ち上がった、
「帰ります! 送って頂かなくて結構です」
 バッグを手に取り足早に立ち去ろうとするが、呆然としていても事、逃げ出すキョーコを捕まえる本能を備えている男は反射的にキョーコの腕を掴み、力一杯引っ張った。
「きゃあ!」
 バランスを崩し蓮の胸へと倒れ込むキョーコを逃がすまいと力一杯抱きしめた。
「いや、離して」
「ダメだ!」
「嫌! 敦賀さんなんて嫌い! うそつき!」
 足をばたつかせてキョーコは泣き叫ぶ。
「どうしたの、一体?」
 突然の豹変に蓮は慌てる。
「嫌い。わたしの事なんて好きじゃ無いくせに! なんでキスするんですか!」
「何を言っている。好きな娘にしかしないよ!」
「じゃあ、好きな子にしたら良いじゃないですか。いつまでも人を身代わりにしないで!」
「身代わり? 身代わりになんてしてないよ!」
 蓮が言った途端キョーコは火が付いたように泣いた。
「嘘つき! キョーコちゃんが好きなくせに!」
「は?」
 蓮は訳が分からない。
「頼むからちゃんと答えて。俺が好きなキョーコちゃんって誰?」
「敦賀さんが本当に好きな人じゃないですか!」
「それは君だろう、キョーコ……ちゃん」
「だらかそれが嘘だって言ってるんです」
「なんで嘘になる。君はキョーコ。ちゃん、だろう」
「キョーコですけど、アナタのキョーコちゃんじゃないです!」
「俺のキョーコちゃんは最上キョーコしかいないよ!」
「嘘です!」
「嘘じゃないって!」
「だってわたしの事なんて名前で呼ばないくせに!」
「え?」
「ずーーっと最上さんだったじゃないですか!」
「それは最初に君に聞いたときに君が「最上」で良いですって言ったからだろう!」
「それは、敦賀さんの好きな人に悪いと思ったからです!」
「だからそれは君だって」
「嘘」
「嘘じゃないよ、キョーコ……ちゃん」
 さすがに叫びすぎて息が切れた二人は束の間押し黙る。
「ね。なんで俺が好きなのがどこかのキョーコちゃんだと思ったの?」
「代マネしたとき……敦賀さん熱出して。熱冷ましのタオルを取り替えた時に、敦賀さんが『ありがとうキョーコちゃん』って笑ったんです」
「そんな人の意識が無いときにの事を持ち出されても」
「だってずっと最上さんって呼ぶから」
「タイミングを逸したんだよ。キョーコ……ちゃん、って呼ぶ」
 バツが悪そうにいう蓮に、ここにいたってふと奇妙なものを感じてキョーコは疑問を口にする。
「あの、さっきから、なんだかキョーコとちゃんの間が空いている気がするんですけど」
「ああ」
 ふいっと蓮は横を向くと、ぶっきらぼうに言い捨てる。
「俺に呼び捨てられるのは嫌かと思って」
「は?」
「だって、最上で良いって言うから」
「は? え、だって別に何でも良かったし」
「好きな男に呼ばれるのは何でもいいんだ」
 ふうん、とどこかひねくれた声音で蓮は相づちを打つ。
「え、あ、あの。ちがっ。敦賀さんが呼んでくれるならなんでも良いって言う事で、あの、本名だし……」
 ごにょごにょと呟いてキョーコは押し黙る。
「成る程、お互い、行き違っていたんだ」
 納得すると二人は顔を見合わせて笑う。
「帰らないでね」
「はい……」
 顔を見合わせてそっと唇を合わせる。
「やっぱり俺の最上さんは可愛い」
「え? あれ? 名前」
「ああ。うん。なんて言うか、キョーコは敷居が高いし、キョーコちゃんって呼ぶのは嫌だし。そうなると、今まで通り最上さんかなってね。だって俺だけでしょ、そう呼ぶの?」
「椹さんも社長さんもいますけど」
 ウカポロ・リターンズ。蓮の唇の端が引き攣った。
「あの二人はどうでもいい! 事務所の人間以外で君の本名を知ってるのは俺ぐらいだろ!」
「あ、はぁ。まあ」
「うん。じゃあいいんだ」
 うんうん、と納得した蓮にキョーコは敦賀さんはやっぱり解らない、と思う。
「あ、ねえ。告白の返事を聞かせてよ」
「は? 告白? いつですか?」
「ラブミー部で言っただろう」
 それは「恋人ごっこ」を始める合図ではなかったか。
「俺は本気だったの」
 だから聞かせて───。
 甘く囁く蓮にキョーコは真っ赤になってツレなく「そんな前の事知りません!」と言い切る。
「そんな、回りくどい告白なんてわたしには分かりません。ラブミー部員なんですから!」
「それもそうか」
「失礼ですよ」
「そうだね」
 クスクスとひとしきり笑って、蓮はキョーコの頬に両手を添える。
「最上キョーコさんが好きです。俺の恋人になって? 俺に君に口吻る許しを与えて? 君を抱きしめて、君の涙を拭うただ一人の男にさせて? 俺を君に愛される世界で一番幸運な男にさせて?」
 蓮はキョーコの顔を上向かせて唇を寄せる。

「好きだと、言って?」

 蓮の言葉は吐息となりキョーコの唇から胸へと忍び込んだ。
「敦賀さん……───」
 そっと囁かれるそれを蓮は宝物のように抱き留めた。

 泡と消える筈だった人魚姫は諦めの悪い王子によって涙の海から拾い上げられた。

 ただ一つの魔法によって───。


 「好き」
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[2016/01/04 00:01] | 短編 | トラックバック(0) | コメント(0)
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